長崎秋の例大祭「長崎くんち」 国指定重要無形民俗文化財

  参考資料:長崎くんち赤本

平成二十一年度(2009年度)奉納踊り町

「今籠町」は1952年(昭和27)以来57年ぶりの出演「本踊り」「傘鉾(新調)」奉納
世帯数の減少などで半世紀以上遠ざかっていた大舞台に向け、町関係者は意欲を燃やしている。
奉納踊り町名6ヵ町と演し物(前日の踊町順番で掲載)

上町(うわまち)

<町名の由来>
 現在の上町は戦後、旧東中町と旧東上町の大半が合して新しい町名を上町に統一し発足した町で傘鉾は旧東上町の傘鉾を使用している。
上町、中町の町名は長崎初期の船着場に船津町(現 瓊の浦公園付近)が形成され、その対岸にあたる所に町が次第に開かれはじめた時、海岸より一番上の通りを上町、上町と海岸との間の通りを中町といった。この上町と中町は次第に発展し大きくなっていったので寛文2年(1672)上町・中町はそれぞれ東西の上町・東西の中町と4ヶ町に分けられた。

上町・傘鉾
<傘  鉾>
飾(ダシ) 白木の八ツ足の上に烏帽子、鈴、前に諏訪社由緒、後に榊と金幣
輪  ビロード
垂模様 正絹本緞子五色唐草模様に三社紋を金糸にて刺繍。
上町・本踊
<奉納踊り>
本踊・女人の伊達姿を加えた江戸の吉原を題材に演じられる「紅葉花諏訪祭伊達競」。

油屋町(あぶらやまち)

<町名の由来>
 当初ここには油座があり、町としての形態が出来上がったのは、油屋町が「油」ではなく。「銀」で上納をするようになった元和2年(1616)頃である。当時の油屋町は長崎一帯の油の販売権を一手に握り、長崎の発展を支えていた。有名な大浦慶の家も先祖代々油屋町の油問屋であった。昭和41年(1966)、町界町名変更で八坂町、鍛冶屋町、高平町の一部が合併し現在の油屋町となる。
 油屋町の周囲は田園が開けていて、その故にこの町の奉納踊りは鳴子を手に持った雀踊りを奉納していたが、最近は町内総参加の意味と玉帯川より油を運んだ故事に因んで、船頭を乗せた川船をだしている。

油屋町・傘鉾
<傘  鉾>
飾(ダシ)  白木の三宝の上に稲穂を配した長熨斗(のし)載せ、その熨斗おさえに金色の宝珠を置いている。
稲穂を配した熨斗というのは奉納踊同様の趣向で実りを奉納する意を表している。
輪   〆縄飾り
垂模様 前日は塩瀬に三社の御紋を金糸にて刺繍。後日は真紅の塩瀬にて金糸にて波と日の出を刺繍。
油屋町・川船
<演し物>
:昭和41年までは「本踊り・鳴子を持った雀踊り」や「剣舞」を奉納していたが、昭和48年からは「川船」を奉納。

元船町(もとふなまち)

<町名の由来
 明治30年(1897)~明治37年(1904)、第2期長崎港湾改修工事により、大波止から大黒町沿岸が埋め立てられて開かれた町で、元亀開港当時この辺の海上一帯が、オランダ船や唐船の碇泊地であったとされ、"元々船が碇泊したところ"という意味で元船町と命名された。昭和48年(1973)町界町名変更で元船町と玉江町の一部が合併し、従来の町名にちなんで、元船町と付けられた。

元船町・傘鉾
<傘  鉾>
飾(ダシ) 大正5年玉江町が奉納した同地区名物の鉄砲玉(長崎市文化財)を中心に長崎鶴の港の意を表した丹頂鶴2羽に松を配した傘鉾。
輪   ビロード。
垂模様 萬歳文字入り亀甲形織出の都錦。
元船町・唐人船・唐子踊り
<演し物>
唐人船・唐子踊り

筑後町

<町名の由来>
 長崎の外町が形成される時期、博多などから多くの商人たちが続々と長崎に移住。商人の多くは筑後方面の人であった。筑後町はその人達によってつくられた町である。筑後町は、その後、次第に発展し、寛文12年(1672)には二町に分けられ、東方を上筑後町、西方を下筑後町といった。
現在の筑後町は、その下筑後と西上町の片側が戦後合併し新しく発足した町である。

筑後町・傘鉾
<傘  鉾>
飾(ダシ) 岩の上に金・銀・藍・白・の玉を置き八つ足の上に鹿の角に草薙の剣を飾り榊ヒモロギ、八咫鏡と曲玉をあしらう。
輪   〆縄飾り。
垂模様 赤地塩瀬羽二重、銀糸の波に金糸の鯛散らし。
筑後町・龍踊
<演し物>
昭和48年から「龍踊」 青龍2頭、白龍1頭 総勢200人

今籠町(いまかごまち)

<町名の由来>
 現在の祟福寺山門前から大光寺山門前、発心寺前、大音寺山門前そして鍛冶屋町の通りまでの通りを以前は今籠町と呼んでいた。
江戸時代初期、中国への貿易品の梱包に竹籠が使われていて長崎港の南側に竹籠の職人街が形成され籠町と呼ばれるようになる。その後さらに竹籠の需要が増し、風頭山のふもとに新しい籠町が作られ新籠町(大音寺籠町)ができた。これによって最初の籠町は本籠町(十善寺籠町)と改称した。正保年間(1644~47)新籠町(大音寺籠町)は今籠町に改称。昭和41年(1966)11月の町界町名変更で、現鍛冶屋町の内に編入された。

今籠町・傘鉾
<傘  鉾>
 その昔、同町には多くの佛寺があったので、佛の住む鷲佳山の意を表し、傘鉾飾りに鷲を置いている。鷲の爪・嘴などは高価な鼈甲細工で出来ており、周囲には怒涛をあらわす自玉を配している。その鷲は諏訪神社で羽ばたいたという。新しく復原。
輪   蛇籠
<演し物>
本踊 「秋祭賑諏訪乃獅子舞」※1952年(昭和27)以来の出演

鍛冶屋町

<町名の由来>
 火を使う鍛冶屋さんが集まって出来た職人町。当初の今鍛冶屋町が大きい町に発展したので、1672年(寛文12)、寛文の大改革により町域が分割され、今鍛冶屋町と出来鍛冶屋町の二町ができる(町割の背景として宮日の奉納の配分が前提に)。今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町とも明治末期まで続くが1913年(大正2)再び合併して鍛冶屋町となる。さらに1966年(昭和41)付近の今籠町など一部の町を吸収して現在の鍛冶屋町となる。

鍛冶屋町・傘鉾
<傘  鉾>
 旧・出来鍛冶屋町の傘鉾を使用
飾(ダシ) 三條小鍛冶宗近と童子(白狐)が宝剣献上の場面で「からくり細工(三條小鍛冶槌を振り上げ刀を鍛える動作で、小槌を振り下ろすと、前に立つ童子の顔が伏見稲荷の御つかい狐の顔に変る)」が施されてあり、長崎名物傘鉾の一つ。
輪 〆縄飾り。
垂模様 前日は金地唐織七福神。後日はつづれ錦織三社紋。
鍛冶屋町・宝船・七福神
<演し物>
昭和6年までは「七福神の踊り」、昭和27年から「宝船・七福神」