国指定重要無形民俗文化財 長崎くんち平成二十二年度(2010年度)踊町紹介
平成二十二年度(2010年度)奉納踊り町
平成二十二年「長崎くんち」踊町並びに今後の予定に関する発表があった。
長崎伝統芸能振興会は4月9日、「長崎くんち」の今年の踊町6カ町と演(だ)し物を発表した。
七年に一度巡って来る「長崎くんち」の踊町。今年はNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、長崎県無形民俗文化財「龍踊(じゃおどり)」を、籠町が特別奉納する。
▽銅座町=傘鉾・南蛮船(なんばんせん)
▽八坂町=傘鉾・川船(かわふね)
▽東濱町=傘鉾・竜宮船(りゅうぐうせん)
▽築町=傘鉾・御座船(ござぶね)・本踊
▽馬町=傘鉾、本踊(ほんおどり)
▽籠町=龍踊(じゃおどり)【特別出演】。
銅座町
<町名の由来>
この地は、東濱町の海岸部を埋め築地として出来た町。享保10年(1725)銅代物替貿易用の棹銅を鋳造するための銅吹所が設置されたことから、銅座と称された。元文3年(1738)銅座が廃止されると、以後は「銅座跡」と呼称したのが地名の起こりである。
その後、寛保元年(1741)鋳銭所が設置され、延享2年(1745)に廃止されるまで寛永通宝が鋳造された。
明治元年(1868)7月に東銅座町・西銅座町が置かれ、同年10月に両町を併せ銅座町とした。現在は周辺と併せて長崎市内で有数の歓楽街となっており、鋳銅所があった場所付近(銅座町13番一帯)に「銅座跡」の碑が建立されている。
<傘 鉾>
飾(ダシ) : 昔は「榊に三種の神器」、昭和49年は「銅銭献上」、平成元年より「老松の下、銅製献上燈篭を置き秋の紅葉を配す」
輪 : 注連飾
垂模様 : 金銀糸波濤図に三社紋を刺繍。
<演し物>
昭和49年までは、「本踊・町内の素封家で文化人としても有名であった永見徳太郎が台本をつくった「長崎五人女」」や「曳き段尻」などを出していたが、平成元年より「南蛮船(なんばんせん)」となる。
八坂町
<町名の由来>
江戸初期、石灰町(本石灰町)に多くの石灰が荷揚げされていたが、油の需要増で油屋町の山手側に新たな町、今石灰町が開かれた。その後、寛文12年(1672)、現應寺(祇園寺)がある山側を今石灰町(祇園石灰町)、油屋町側を新石灰町と分割。
明治元年(1868)、神仏の合祀が改められ現應寺が八坂神社に改称。明治4年(1871)八坂神社に因み両町を合併して八坂町となった。
八坂町は昭和41年(1966)町界町名変更で鍛冶屋町、油屋町などに吸収され、現在では「くんち」の踊り町のときのみ八坂町の名で出場している。
<傘 鉾>
飾(ダシ) :ビードロ(硝子)松に紅葉をあしらい白木神明造鳥居に玉垣を配す。鳥一羽泊る。
輪 : 注連飾
垂模様 : 白地塩瀬羽二重金糸にて三社紋刺繍 。
<演し物>
昔は「小薩摩」などの記録が残るが、明治36年からは「川船(かわふね)」3ツ車の川船。
東濱町
<町名の由来>
寛文3年(1663)には現在の浜町に当る海岸に最初の新地の築立てを行い、続いて延宝4年(1676)に中島川沿いを築出すなど浜に面した便利な町として濱町は発展し、薩摩、五島、久留米の各藩の屋敷や、そのご用達の問屋が建ち並ぶ地域となる。
寛文12年(1672)の寛文の大改革により東濱町、西濱町の二町に分割された。現在は西濱町や万屋町の一部を合併して浜町となっているが、「くんち」の踊り町のときのみ昔の町区の東濱町の名で出場している。
<傘 鉾>
飾(ダシ) : 浜辺に因んで、大きな蛤から吹出す汐の中に金色まばゆき蜃気楼(龍宮城)あり。大小二個の蛤を添える。
潮は1本1本に白絹を巻いた細い竹数百本を組み合わせて出来ている。
輪 : 黒ビロード(シホンベルベット)に金糸にて町名
垂模様 : (前日)金通し塩瀬羽二重赤地に金色静海波模様 。(後日)塩瀬羽二重海底模
<演し物>
昭和42年までは「本踊」、昭和49年から「竜宮船(りゅうぐうせん)・本踊」
築町
<町名の由来>
長崎開港後の元亀2年(1571)、森崎の先端(現・長崎県庁)の台地に六町が開かれ、その後、北側に市街地は広がるが、六町の崖下の大川(現・中島川)沿いにも町が生まれていく。
埋め立てによって築き出だされ町、築町が誕生する。
文禄元年(1592)~慶長5年(1600)には内町は二十三町あり、築町の名もある。その故に築町は長崎初期の町であった。
寛文12年(1672)の大改革で築町は東築町・西築町の二町に分割され明治4年(1871)に町名の再編で再び合併し築町となり、
昭和38年(1963)11月の町界町名変更で、現築町・江戸町・賑町に分割され、旧今下町・本下町の一部が合併し、いまの築町となった。
<傘 鉾>
飾(ダシ) : 町名の築を月の字におきかえて考え、出場年によって「三日月に芒と秋菊」、「老松の下に満月」、などと変化する。
輪 : ビロード
垂模様 : 明治43年新調にて京都神坂雪佳画伯の下絵、紅白光琳菊織出しつづれ織
<演し物>
明治の頃までは「本踊」、昭和7年の出場から勇壮な細川藩の「御座船(ござぶね)」を模して船を造り、それに年によって「剣舞」や「本踊」を付け奉納。最近では「本踊」の付くことが多い。
馬町
<町名の由来>
馬町は、諏訪神社の門前に位置する。長崎街道の入口付近には、常時、公用の荷物を運ぶ馬がいつも待機していて、馬を手配する町として発展した町が馬町である。
寛文12年(1672)通りをはさんで諏訪神社側を北馬町、中島川よりを南馬町分割されたが、明治5年(1872)統合され馬町となり現在に至ります。
当時いた馬は次の宿である日見宿まで客人とともに荷物を載せ向かい、荷物を下ろした後はひとりで馬町まで戻って来たという。
<傘 鉾>
飾(ダシ) : 鞍、下鞍、轡、手綱等の馬具に陣笠、弓矢、鞭を添える。下鞍一枚には簑亀の浮刺繍あり。一枚には町名を記す。弘化年間(1844年~1847年)の作 。
輪 : 黒ビロード
垂模様 : 繻珍、萬字ずくし地紋に三社紋と雲の織出
<演し物>
本踊(ほんおどり)
籠町【特別出演】
<町名の由来>
町の前面は唐人荷物庫と唐船の修理場があり、後方には唐人屋敷をひかえており、貿易と共に発展した町である。籠町とは、竹籠を作る町という意味で、
竹籠は江戸時代初期、中国への貿易品の梱包には竹籠が使われていて竹籠の職人街が形成され籠町または船籠町と呼ばれるようになる。
<演し物>
「龍踊(じゃおどり)」
享保元年(1716)の頃、本籠町に蛇踊が伝わる。諏訪神社の奉納踊りに登場する確実な年代は不明であるが、享保5年(1720)又は 明和年間頃(1764~)寛政年間(1789~1800)の頃からなどの説がある。大太鼓には、文政八年酉八月吉日(1825)の銘がある。
昭和32年に蛇踊を龍踊に変更。