国指定重要無形民俗文化財 長崎くんち平成二十三年度(2011年度) 踊町紹介
平成二十三年度(2011年度)奉納踊り町
長崎伝統芸能振興会は4月4日(月)、「長崎くんち」の今年の踊町7カ町と演(だ)し物を発表した。
今年のくんちは「復興」と「鎮魂」を。東日本大震災の影響も考えられる中、復興を願う神事を色濃くするという。
▽紺屋町= 傘鉾・本踊
▽出島町= 傘鉾・阿蘭陀船(おらんだぶね)
▽東古川町= 傘鉾・川船
▽小川町= 傘鉾・唐子獅子踊(からこししおどり)
▽本古川町= 傘鉾、御座舟(ござぶね)
▽大黒町= 傘鉾・本踊・唐人船
▽樺島町= 傘鉾・太鼓山(コッコデショ)
紺屋町(こうやまち)
<町名の由来>
長崎開港間もない慶長2年(1597)頃、中島川沿いに材木町に続いてつくられた町で紺屋つまり染物屋の職人街が開かれ紺屋町が生まれた。
紺屋は大量の水と広い土地を必要としたため川沿いの地域が選ばれ、さらに材料の藍玉(あいだま)は長崎には産せず、海路で輸入するため川沿いの場所が適地であり中島川沿いに発展している。
長崎の発展につれ染物の需要も増え、この紺屋町のほかに中島川の上流に新たに紺屋が集まった。これを今紺屋町とし、最初にできた紺屋町を本紺屋町と改称した。
その後、すぐに中島川を挟んで寺町側にも紺屋町が開かれ新紺屋町となる(のち麹屋町)。寛文12年(1672)大改革で今紺屋町を二つに分割、今紺屋町と中紺屋町とし200年余り続くが、
明治初期、新たな改革が行われ今紺屋町と中紺屋町を合併させ紺屋町となる。しかし昭和41年(1966)本紺屋町は賑町と栄町に、紺屋町の西側を桶屋町と魚の町に、
東側は麹屋町と諏訪町に分割され消滅、今では「くんち」の踊町の時のみ見ることがでる。
飾り(ダシ) : 左右には紅葉の楓二株。中央に冠を載せた冠台を置き、その上に楽人の用具である笙と鳥兜を配す。
輪 : 〆縄飾り。
垂れ(幕) : 前日は白地糸錦地に古代模様。後日は五色糸錦に三社紋。
<奉納踊り>
本 踊
出島町(でじままち)
<町名の由来>
出島はポルトガル人を一ヶ所に集め住まわせる目的で、寛永13年(1636)に完成した扇型の人工の島であった。
寛文12年(1672 )の出島町は丸山、寄合町とともに市街の77町には含まれていなかったが、慶応2年(1866)からは外国人居留地に編入され市街の一町として扱われるようになり、
そのときの範囲は昔の出島の範囲のみであった。昭和39年(1964)の町界町名変更で出島、入江町、築町、羽衣町、末広町、千馬町、要町が合併して現在の範囲となった。
今では水辺の森公園の大半も出島町に入り大きな街区となっている。昭和28年(1953)より踊町として参加。
飾り(ダシ) : 昭和28年製作。中山文孝氏の意匠、航海用具で統一。輸入された天文用具「渾天儀(こんてんぎ)・天体望遠鏡・定規・十二支丸計・羅針盤」、洋書、出島門鑑など。
輪 : 黒ビロードに金文字で出島・DEJIMAの文字。
垂れ(幕) : あかね色の空に青い海ここに阿蘭陀船が浮かぶ。
<奉納踊り>
阿蘭陀船
東古川町(ひがしふるかわまち)
<町名の由来>
古くは川添町から歌舞伎町、新歌舞伎町と開かれ、これらの町は後に古川町と改称。寛文12年(1672)の大改革により均等に町建てが行われ、
本古川町、東古川町、西古川町に分割される。しかし、昭和41年(1966)町界町名変更により現古川町、万屋町に分割される。
昭和57年(1982)長崎水害により中島川の河川改修が行われると西古川町の川沿いの地域は消滅してしまう。今では「くんち」の出し物などにしか旧町名を見ることが出来ない。
しかし、平成19年(2007)東古川町は41年ぶりに町名復活をした。
飾り(ダシ) : ギヤマン製の投網と水棹と魚籠に「東古」の文字を表し、左右に葦を繁らし河骨(こうほね・沼や川に生える多年草)を配す。
輪 : 蛇龍の輪で川の感じを一段と強めている。
垂れ(幕) : 紫紺地緞子の荒格子織出しの粋な感じ。
<奉納踊り>
川 船
小川町(おがわまち)
<町名の由来>
桜町を下りたところ。立山から町のかたわらを小川(岩原川)が流れていた事から小川町の名が出来たといわれる。
船津町に近く比較的早く出来た町と伝えられる。昭和38年(1963)の町界町名変更で、現桜町、金屋町、恵美須町、上町の内に分割された。
小川町は昔、こがわ町と呼ばれていたという。
飾(ダシ) : 水堰に小川町の文字、四ツ手網、2羽の鷺、左右に葦、あやめを配す。
輪 : 蛇龍
垂れ(幕) : 塩瀬緋色ぼかし、流水織出しで三社紋、楓、蛇籠、葦、岩、2尾の鯉を長崎刺繍で配している。2匹の鯉は回ると現れる。
<奉納踊り>
唐子獅子踊
本古川町(もとふるかわまち)
<町名の由来>
古くは川添町から歌舞伎町、新歌舞伎町と開かれ、これらの町は後に古川町と改称。寛文12年(1672)の大改革により均等に町建てが行われ、
本古川町、東古川町、西古川町の三町に分割される。町建の当初、旧戸町村古河の住民が移住して出来たと伝えられているが明確ではない。
中島川沿いの町では一番古い町ではないかといわれている。
昭和41年(1966)町界町名変更によりほとんどが現古川町と呼ばれるようになる。
今では「くんち」の出し物などにしか旧町名を見ることが出来ない。
飾り(ダシ) : 楽師の町の伝統を継ぎ「雅楽」をテーマとしている。白木長机に烏帽子と中啓(ちゅうけい・扇の一種)をのせ、
横に鼓、背後に町名を記した〆太鼓、その面上に鼓の皮を倶に堅に配し、龍笛を斜めに立て懸け後方に撥を置く。
輪 : 〆縄飾り。
垂れ(幕) : 全体に楓や紅葉を散らして秋の風情。笙、ひちりきな、獅子の火焔太鼓がアクセント。(前日・中日)糸錦地織(後日)塩瀬生地を使用
<奉納踊り>
御座船
大黒町(だいこくまち)
<町名の由来>
大黒町は寛文12年(1672)の町政大改革により恵美酒町から分割され大黒町となった。恵比須、大黒の縁起によって付けられた町である。
元亀(1570)開港ころの大黒町一帯は、現長崎港の奥にあり、入江には漁船が多く、また、現在の長崎駅付近には内外各種船舶の碇泊もあり港としての重要な位置を占めていた。
昭和38年(1963) 町界町名変更で現在の町域となる。
飾り(ダシ) : 町名にちなんだ大黒様の持物、金色の打ち出の小槌と2匹の白ねずみ。
輪 : ビロードに手刺繍金文字で大黒町の文字。
垂れ(幕) : 三社紋錦地の地紋織に稲佐山を背景にして、大黒町の沖に船がかりした「唐人船・一番船」三場景の一枚織物。後日は、緋色の塩瀬に大漁の友禅染。
<奉納踊り>
本踊・唐人船
樺島町(かばしままち)
<町名の由来>
長崎半島の先、旧・西彼杵郡野母崎樺島は熱心なキリシタンの島だった。この樺島の人たちが移住してきて町を形成したという。
天正8年(1580)頃、五島町に続いて旧平戸町の崖下の海岸添いに出来た町で、五島町同様キリシタン移住者による町である。
昭和48年(1973)の町界町名変更で現樺島町、万才町に分割された。
江戸時代には諏訪神社の道具蔵や制札場があった。
飾り(ダシ) : 昭和57年新調。諏訪社をあらわす金の御幣を中心に表に猿田彦の赤面、裏に猿田彦の青面、後方に榊を配す。
輪 : 〆縄。
垂れ(幕) : 塩瀬に磯辺の松と岩、波の模様。
<奉納踊り>
太鼓山(コッコデショ)