長崎秋の例大祭「長崎くんち」 国指定重要無形民俗文化財

  参考資料:長崎くんち赤本

  ● 平成二十九年度・奉納踊町(おどりちょう)五ヵ町と演し物

  ※ 「公会堂前広場」の踊場から「中央公園」踊場に変更になりました。

   (前日の踊り順番に記載しています。中日・後日は、順番が変更になります)
平成二十二年度踊り町(2010年度)と同じ踊町の参加です。踊り順番は変更になっております。
踊町は、七年に一回巡ってきます。各踊町は永い伝統のなか、それぞれ趣向を凝らした演し物を持っています。特に龍踊(じゃおどり)・太鼓山(コッコデショ)・川船(かわふね)・唐人船・御朱印船・阿蘭陀船(おらんだせん)・鯨の潮吹き・龍船(じゃぶね)・恵美須船・本踊(ほんおどり)など自慢の演し物があります。全部を見るには七年かかります。

  ● 馬 町(うままち)

※ <町名の由来>
 馬町は、諏訪神社の門前に位置します。長崎街道の入り口付近には、常時、公用の荷物を運ぶ馬がいつも待機していて、馬を手配する町として発展した町が馬町です。
 寛文12年(1672)、通りをはさんで諏訪神社側を北馬町、中島川よりを南馬町分割されたが、明治5年(1872)統合され馬町となり現在に至ります。
 当時いた馬は次の宿である日見宿まで客人とともに荷物を載せ向かい、荷物を下ろした後はひとりでに馬町まで戻って来たといわれています。
※ <傘  鉾>
飾(ダシ) 鞍、下鞍、轡、手綱等の馬具に陣笠、弓矢、鞭を添える。下鞍一枚には簑亀の浮刺繍あり。一枚には町名を記す。弘化年間(1844年~1847年)の作です。
    黒ビロード
垂模様  繻珍、萬字ずくし地紋に三社紋と雲の織出
※ <演し物>
本踊(ほんおどり)

  ● 東濱町

※ <町名の由来>
 寛文3年(1663)には現在の浜町に当る海岸に最初の新地の築立てを行い、続いて延宝4年(1676)に中島川沿いを築出すなど浜に面した便利な町として濱町は発展し、薩摩、五島、久留米の各藩の屋敷や、そのご用達の問屋が建ち並ぶ地域となりました。
 寛文12年(1672)の寛文の大改革により東濱町、西濱町の二町に分割されます。現在は西濱町や万屋町の一部を合併して浜町となっていますが、「くんち」踊り町のときのみ昔の町区、東濱町の名で出場しています。
※ <傘  鉾>
飾(ダシ) 浜辺に因んで、大きな蛤から吹出す汐の中に金色まばゆき蜃気楼(龍宮城)あり。大小二個の蛤を添える。
潮は1本1本に白絹を巻いた細い竹数百本を組み合わせて出来ています。
    黒ビロード(シホンベルベット)に金糸にて町名
垂模様  (前日)金通し塩瀬羽二重赤地に金色静海波模様 。(後日)塩瀬羽二重海底模
※ <演し物>
 昭和42年までは「本踊」、昭和49年から「竜宮船(りゅうぐうせん)・本踊」

  ● 八坂町

※ <町名の由来>
 江戸初期、石灰町(本石灰町)に多くの石灰が荷揚げされていたが、油の需要増で油屋町の山手側に新たな町、今石灰町が開かれ、その後、寛文12年(1672)、現應寺(祇園寺)がある山側を今石灰町(祇園石灰町)、油屋町側を新石灰町と分割。
 明治元年(1868)、神仏の合祀が改められ現應寺が八坂神社に改称。明治4年(1871)八坂神社に因み両町を合併して八坂町となりました。八坂町は昭和41年(1966)町界町名変更で鍛冶屋町、油屋町などに吸収され、現在では「くんち」踊り町のときのみ八坂町の名で出場しています。
※ <傘  鉾>
飾(ダシ) ビードロ(硝子)松に紅葉をあしらい白木神明造鳥居に玉垣を配す。鳥一羽泊る。
    注連飾
垂模様  白地塩瀬羽二重金糸にて三社紋刺繍 。
※ <演し物>
 昔は「小薩摩」などの記録が残るが、明治36年からは「川船(かわふね)」3ツ車の川船。

  ● 築町

※ <町名の由来>
 長崎開港後の元亀2年(1571)、森崎の先端(現・長崎県庁)の台地に六町が開かれ、その後、北側に市街地は広がるが、六町の崖下の大川(現・中島川)沿いにも町が生まれていきます。埋め立てによって築き出だされ町、築町が誕生します。
 文禄元年(1592)~慶長5年(1600)には内町は二十三町あり築町の名もある、そのゆえ築町は長崎初期の町であった。
 寛文12年(1672)の大改革で築町は東築町・西築町の二町に分割され明治4年(1871)に町名の再編で再び合併し築町となり、昭和38年(1963)11月の町界町名変更で、現築町・江戸町・賑町に分割され、旧今下町・本下町の一部が合併し、いまの築町となりました。
※ <傘  鉾>
飾(ダシ) 町名の築を月の字におきかえて考え、出場年によって「三日月に芒と秋菊」、「老松の下に満月」、などと変化します。
    ビロード
垂模様  明治43年新調にて京都神坂雪佳画伯の下絵、紅白光琳菊織出しつづれ織
※ <演し物>
 明治の頃までは「本踊」、昭和7年の出場から勇壮な細川藩の「御座船(ござぶね)」を模して船を造り、それに年によって「剣舞」や「本踊」を付け奉納。最近では「本踊」の付くことが多い。

  ● 銅座町

※ <町名の由来>
 この地は、東濱町の海岸部を埋め築地として出来た町。享保10年(1725)銅代物替貿易用の棹銅を鋳造するための銅吹所が設置されたことから、銅座と称されます。元文3年(1738)銅座が廃止されると、以後は「銅座跡」と呼称したのが地名の起こりとなります。 その後、寛保元年(1741)鋳銭所が設置され、延享2年(1745)に廃止されるまで寛永通宝が鋳造されました。
 明治元年(1868)7月に東銅座町・西銅座町が置かれ、同年10月に両町を併せ銅座町となります。現在は周辺とあわせて長崎市内でも有数の歓楽街となっており、鋳銅所があった場所付近(銅座町13番一帯)に「銅座跡」の碑が建立されています。
※ <傘  鉾>
飾(ダシ) 昔は「榊に三種の神器」、昭和49年は「銅銭献上」、平成元年より「老松の下、銅製献上燈篭を置き秋の紅葉を配す」
    注連飾
垂模様  金銀糸波濤図に三社紋を刺繍。
※ <演し物>
 昭和49年までは、「本踊・町内の素封家で文化人としても有名であった永見徳太郎が台本をつくった「長崎五人女」」や「曳き段尻」などを出していましたが、平成元年より「南蛮船(なんばんせん)」となりました。