もってこ~い「長崎くんち」

  参考資料:長崎くんちの栞・長崎くんち赤本

  ● 長崎くんち令和七年度(2025年度)奉納予定踊町六ヶ町

前回 平成27年度(2015年度)奉納
踊町とは、その年に奉納踊を披露する当番の町を踊町と言います。現在、長崎市内に全部で59カ町存在し、7つの組に分けられています。当番は7年一巡となっており、長崎くんちの演し物を全てを観るには7年間踊場に通いつめなければなりません。

長崎くんち踊町

踊町と演し物は前回参考
過去7年間に踊町として出演した町のみ演し物を記載しています。
  新  橋 町    傘鉾 ・ 本踊 阿蘭陀万歳(ほんおどり おらんだまんざい
  諏  訪 町    傘鉾 ・ 龍踊(じゃおどり)
  新大工町    傘鉾 ・ 詩舞(しぶ) ・ 曳壇尻(ひきだんじり)
  榎  津 町    傘鉾 ・ 川船(かわぶね)
  西古川町    傘鉾 ・ 櫓太鼓(やぐらだいこ)・本踊(ほんおどり)
  賑  町    傘鉾 ・ 大漁万祝恵美須船(たいりょうまいいわいえびすぶね)
  金  屋 町(令和7年度辞退)  傘鉾・本踊(ほんおどり)
  磨  屋 町
  本紙屋町

新橋町(しんばしまち)

<町名の由来>
 はじめ毛皮屋町と称し中国より輸入された毛皮を加工・製品化する人達がこの町に住んでいた。後に、新橋町と改称された。
1966年(昭和41)新橋町は諏訪町の中に含まれてしまったが、「長崎くんち」には新橋町の名前で出場している。
<傘  鉾>
飾(ダシ) 福禄寿を意味して朱塗りの花台に鹿の香炉、於多福の香合を配し霊芝の盆栽(床飾りの言い意匠)。
輪   ビロードに町名を金刺繍。
垂模様 雲の浮橋を塩瀬羽二重に金刺繍。
<奉納踊り>
阿蘭陀万歳
 明治大正の頃は「本踊」、昭和26年から「阿蘭陀万歳」の奉納。
 阿蘭陀万歳は、もともと日本舞踊・花柳流が1933年(昭和8)に創作した踊り。「長崎くんち」の奉納踊りとしては1951年(昭和26)、新橋町が初めて取り入れた。
オランダから長崎へやって来たオランダ人の「万歳」と「才蔵」が、長崎の町の風景を見ながら、おもしろおかしく踊る。うちわを手にする万歳と鼓を持つ才蔵、二人が鼓を取り合うコミカルな動きの踊りが見どころ。

諏訪町(すわのまち)

<町名の由来>
 この町名は、長崎の氏神様である諏訪神社に由来する。
1555年(天文24)頃、諏訪神社が長崎で最初に勧請された場所が、寺町の長照寺山門付近だった。この場所は毛皮屋町の一部だったが、諏訪神社が祀られていたことでこの付近を諏方町と呼ぶようになる。
江戸時代には諏方町と称していたが明治以降、諏訪町に変わり、さらに1966年(昭和41)町界変更で付近の町を吸収して現在の諏訪町になる。
<傘  鉾>
飾(ダシ) 諏訪神社の御紋梶の葉に諏訪町の町名を記し松と玉垣を配している。
昔は老松の下に二十四孝の諏訪法性の兜を飾に、垂れ(幕)もこれに調和した諏訪伝統を刺繍したものであった。
輪   〆縄飾り
垂模様 歌舞伎「本朝廿四考」謙信館奥庭狐火の段。緋の塩瀬羽二重に諏訪町の町名に因み、諏訪社、湖を渡る白狐、氷裂、稲妻の図を巧みに取り入れてられており、寛政~文化年間(1789~1817)に製作されたものであろうと考えられている。
 傘鉾垂及び下絵は長崎市指定有形文化財・指定年月日:昭和49年3月8日
<奉納踊り>
龍踊(じゃおどり)青龍・白龍・子龍・孫龍
 諏訪神社の使いが白蛇だと伝わることから、諏訪町の奉納踊りは、白龍(しろじゃ)も登場する。
 諏訪町の龍踊りは1886年(明治19)、蛇踊りの奉納から始まり、120年以上の歴史を誇る。1957年(昭和32)、蛇踊りの名称が龍踊に変更される。青龍(あおじゃ)に、復活した白龍と子供達の子龍(青、白)の計三匹が加わった。1986年(昭和61)からは孫龍も登場する。
 響きわたる勇壮な銅鑼(ドラ)や太鼓、長喇叭(ながらっぱ:龍の鳴き声)の龍囃子にのって、生命を吹き込まれた龍が体を上下左右に振り、くねらせながら玉を追いかけ舞う。青龍と白龍がともに踊る「双龍の舞」は見せ場。

新大工町(しんだいくまち)

<町名の由来>
 大工町が手狭になったので新しく大工職人が集まって造った町。新大工町が出来たとき、大工町は、本大工町となった。その後、1672年(寛文12)に新大工町と出来大工町に分割された。
<傘  鉾>
飾(ダシ) 町と由緒の深い奈良の春日明神に、金色の春日灯籠を秋の季節をあらわす紅葉の下に配し、灯籠献上をあらわしている。
輪   〆縄飾り。
垂模様 正絹両練固地織薄茶地固流紋に諏訪大神、森崎大神 住吉大神の三社御紋の金刺繍。
<奉納踊り>
詩舞(しぶ)・曳壇尻(ひきだんじり)
 吟詠に合わせて袴姿の若い女性たちが優雅に詩舞「祝賀の詞」を披露する。
  「曳壇尻」は総檜造り。本漆塗りで1986年(昭和61)に新造された。屋根飾りは大工職人の町として、匠職人が崇敬する春日大社の前庭を模して、白木の春日鳥居を中心にして、松と紅葉を左右に配し、 その前に春日大社の祭神が常陸の国から白い神鹿の背に乗って来られたということで「鹿」二匹を配する。屋根には大工の職人尽くしの彫刻 。 
 曳壇尻は、長采一人、添采四人、根引二十人で曳き廻す。囃子方は子供七人で曳壇尻に乗り、大太鼓、締太鼓、小鐘を打ち込む。長さ5m、重さは3t。

榎津町(えのきづまち)

<町名の由来>
 町名は筑後榎津(現・福岡県大川市)産の家具類を扱う商人がこの町に集住していたことからこの町名になった。
現在は、万屋町の中に入ってしまったが、「長崎くんち」には昔の名前、町域で出場している。
<傘  鉾>
飾(ダシ) 酒井彫雅堂(魚の町)の作。白木八ッ脚に真薦を敷き、榊を合わせ金蒔絵三社紋の黒漆三宝に銀の御神酒瓶一対を並べ、白木の肴台に、注連縄飾りの海老を中にしてビードロ細工の双鯛を配す。
輪    〆縄飾り。
垂模様 京都の龍村平蔵美術織物作。 地地紋に三社御神紋を配した亀甲の上に流鏑馬装束に身を包んだ走馬模様を羽二重紅地錦織に表す。神前であることを考慮して敢えて矢を射る所作を割愛してある。
<奉納踊り>
川 船
 いつ頃から川船を奉納するようになったのか明らかではないが、川船に吊り下げられている「小鉦」には「嘉永二年酉七月御神事に拵え 榎津町三挺之内」と陰刻がある。
 現在の川船は、1949年(昭和26)に新調し、現存する川船では、一番古いという。長さは6m、重さ3t。屋根の飾りは紅葉と菊で秋の情趣を伝える。
 川船に囃方(大太鼓、締太鼓、鉦)を乗せ、子どもがふんする網打ち船頭が投網で魚をとる妙技を披露する。

西古川町(にしふるかわまち)

<町名の由来>
 中島川の川沿いに出来た町で、1672年(寛文12)の大町分割策によって「古川町」を西古川町、本古川町、東古川町に分割し成立した。当初は歌舞伎町または新歌舞伎町とも称したという。
寛永年間(1624年~44)名力士初代横綱の明石志賀之助の流れを受け継ぐ相撲取りが住んでいたと伝えられ相撲に縁のある町で、長崎における相撲興行権などを持っていた。
<傘  鉾>
飾(ダシ) 相撲に関わる大軍配を中心に、重藤の弓、弓弦乃神代巻、同軸箱を配する。
輪   赤色のビロードに金文字西古川町の町名。
垂模様 生地は白塩潮羽二重に金糸で三社紋(諏訪大神、森崎大神 住吉大神の紋)を刺繍。
<奉納踊り>
本踊・角力踊道中囃子・櫓太鼓
 明治大正期は「角力踊り」だあった。最近では1994年(平成6)に櫓太鼓が36年ぶりの復活で「本踊・櫓太鼓・相撲土俵入り・相撲甚句」を奉納。(「櫓太鼓」とは、相撲場や歌舞伎劇場で開場または閉場を知らせるため、櫓の上で打つ太鼓のこと)
 江戸時代、長崎は江戸、京都、大阪ともに相撲の興行地でもあり、長崎での興行では古川町が仕切っていた。
町内には、初代横綱の明石志賀之助の流れを受け継ぐ力士も住んでいたということで、相撲と縁が深い町であることから、1821年(文政4)に初めて櫓太鼓を奉納。
西古川町角力踊道中囃子・県指定無形民俗文化財(昭和40年5月31日指定)
 角力踊道中囃子は大太鼓,締太鼓,笛が使用されるにぎやかな音曲で旧西古川町がくんちに奉納した角力踊道中踊の下座音曲。

賑町(にぎわいまち)

<町名の由来>
 昭和38年の町界町名変更で材木町、今下町の全部と周囲の町、築町・本紺屋町・本下町の各一部が合併して新しく誕生した町。
 町名は、賑橋があり、町がますます賑やかに発展するようにという意味で名付けられた。
<傘  鉾>
飾(ダシ) 波頭の波模様の台上に八足と八稜鏡をかたどる置台を配し、恵比寿神話による満ち潮を招く象徴である満珠(吹き玉技法によるビードロ)を置く。
輪   黒のビロードに町名の金文字刺繍 。
垂模様 金糸青海波織出の地に金糸にて諏訪・森崎・住吉三社紋を織出糸錦。昭和61年製作。
<奉納踊り>
大漁万祝恵美須船
 1979年(昭和54)までは「本踊」を奉納。1986年(昭和61)から今も町に残る恵美須神社にちなみ「大漁万祝恵美須船」を奉納。今回が4回目となる。
 親船「恵美須船」と子舟「宝恵(ほうえい)舟」、「豊来(ほうらい)舟」二隻の計三隻が船団を組み、大漁を祝う様を表現する。恵美須神にふんした幼児が、船上から本物の生きた鯛を釣り上げて見せる。
また、船から網が広げられ、子舟「宝恵船」、「豊来船」が魚を追い込む船回し。最後に恵美須船が大漁を祝う歓喜の曳き回しを豪快に披露する。
 「恵美須船」は長さ5.3m、高さ3.85m、重さ4t。屋台の上を飾る漁網はビードロ細工でつくられたもの。

金屋町(かなやまち)

<町名の由来>
 金屋町の由来は諸説ある。町ができた当時、この辺りは海に面した丘陵地で寛永年間(1624~43)金屋町に開設魚類集散場(魚市場)が置かれていたことから「さかなやまち」と呼ばれていたのだが、いつの間にか「さ」が取れて、「かなやまち」になったという説。
また、主に金物の日用品を取扱う金物業者・金属商が多く住んでいたからこの町名になったという説がある。
<傘  鉾>
飾(ダシ) 天孫降臨先導役・猿田彦大神の朱塗りの面を方位石の上正面に据え、右に鉾、左に太刀、三社紋に老松と白菊、背に御神号を拝す。
輪   〆縄飾。
垂模様 西陣織、赤地雲立、枠金襴三丁織。
<奉納踊り>
本踊
 長唄「諏訪詣金屋傾城綾錦(すわもうでかなやけいせいあやにしき)」を奉納。