もってこ~い「長崎くんち」

  参考資料:長崎くんちの栞・長崎くんち赤本

  ● 長崎くんち令和十一年度(2029年度)奉納予定踊町紹介

前回令和元年度(2019年度)奉納
踊町とは、その年に奉納踊を披露する当番の町を踊町と言います。現在、長崎市内に全部で59カ町存在し、7つの組に分けられています。当番は7年一巡となっており、長崎くんちの演し物を全てを観るには7年間踊場に通いつめなければなりません。

奉納踊り町

踊町と演し物は前回参考
過去7年間に踊町として出演した町のみ演し物を記載しています。
  今博多町  傘鉾 ・ 本踊(ほんおどり)
  魚  の 町  傘鉾 ・ 川船(かわふね)
  玉  園 町  傘鉾 ・ 獅子踊(ししおどり)
  江  戸 町  傘鉾 ・ オランダ船(おらんだせん)
  籠  町  傘鉾 ・ 龍踊(じゃおどり)
  桜  町
  勝  山 町
  古  町

今博多町(いまはかたまち)

<町名の由来>
 元亀2年(1571)、長崎には六ヵ町が造成され、その後、博多商人が来崎し町を開き博多町が生まれます。文禄年間(1592~96)さらに博多商人が来崎し当時の市街地のはずれに再び別の博多町を開き、二つの博多町は前者を本博多町、後者を今博多町と称し、今博多町には宿屋、遊女屋が建つようになります。
 1634年(寛永11年)に、神前にて謡曲「小舞」を博多柳町より来た今博多町の遊女である高尾と音羽の二人が奉納したことが「長崎くんち」の始まりと言われています。ゆえに、傘鉾飾(だし)には奉納舞楽の意を込めて趣向されています。
<傘  鉾>
<飾・ダシ> 町名を記した金幣に玉垣を配し、三社紋を付けた火焔太鼓に榊を取り合わせています。
<輪>    〆縄飾り
<垂模様>  塩瀬羽二重、亀甲形に鶴の文様入り三社紋織り出し。

今博多町・傘鉾
<演し物>
本踊(ほんおどり)
長唄 今日爰祭祝鶴舞(きょうここにまつりをいわうつるのまい)

本踊・今日爰祭祝鶴舞

魚の町(うおのまち)

<町名の由来>
 中島川沿いにあり、昔は、この町のところまで、船がのぼってきていて、ここに魚市場ができました。この由来が町名になっています。また近くには魚市橋という名の橋も架かっています。
 長崎第一の金工で、女鋳物師として有名な「かめ女」もこの町に、住んでいたといわれています。
 現在の魚町は昭和38年(1963)、旧今魚町を中心に旧本大工町・旧酒屋町の一部が加わって形成されています。

魚の町・傘鉾
<傘鉾>
<飾・ダシ> 長崎を代表するビードロ細工で箱書きには嘉永2年(1849)今魚町住人、カメ女の作となっています。町名に因んで鯛、海老、わせ、うたせ網を中にして、ビードロ細工の葦を配します。(傘鉾飾・長崎市の指定有形文化財)
<輪> 蛇籠に「さざれ石」 <垂> 正絹無双に曙ぼかし織。裾に青海波地紋、波頭本金糸縫取、平成3年7月に約百年を経た従来の垂が復元されたものです。
<奉納踊り>
川船(かわふね)
この町の奉納踊りは町名に因んで川船であり、その船の船頭さんの衣装には豪華な長崎刺繍が施されています。川船のみせどころは、船頭さんの網うちと船の勇壮な引き廻しです。
川船(かわふね)

玉園町(たまぞのまち)

<町名の由来>
 玉園町は昭和38年(1963)の町界町名変更によって旧上筑後と東上町の一部、下筑後町の一部が統合して新町名の玉園町となっています。 新町名の由来は、町域が氏神、諏訪神社がある玉園山の、すぐ、側にあるということで玉園町と名づけられたといわれます。
 昔、玉園町には「ジャガタラお春」の住居があったところであるといわれ、町内の聖福寺の境内には「お春の歌碑」があります。また、「九代目市川団十郎」建立の祖先追善供養の碑も建っています。

玉園町・傘鉾
<傘鉾>
<飾・ダシ> 玉垣に榊と朱の八つ足の上に冠と鈴を置き、中啓を配します。
<輪> 〆縄飾り
<垂> (前日)塩瀬羽二重 旭に雲の曙  (後日)塩瀬羽二重 秋の七草
<奉納踊り>
獅子踊(ししおどり)
 長崎県西彼杵郡長与町の吉無田獅子踊保存会の協力を得て獅子踊を奉納しています。
 獅子が七色の煌びやかな毛を振り乱し、猛々しくも華麗に舞い踊る。獅子7頭に子獅子2頭が軽業のように踊る姿は必見です。
玉園町・獅子踊(ししおどり)

江戸町(えどまち)

<町名の由来>
 江戸町は出島が完成した寛永十三年(1636)より発展している。出島築造後は出島の門前町となりオランダ通詞楢林鎮山宅が置かれるなど、オランダとの交流が深く、江戸時代、長崎くんち奉納踊りで江戸町はオランダ兵隊を披露したことで有名です。
 寛政年間(1789~1801)の頃、オランダ商館長が江戸町に贈ったといわれる江戸町の町章はJEDOMACHIの頭文字J、D、Mの3文字を組み合わせた紋章で、その形が日本人には蛸が横になっているようにも見えたので俗に「たこのまくら」と呼ぶようになります。

江戸町・傘鉾
<傘鉾>
<飾・ダシ> 昭和51年までは、「松と紅葉をあしらい白木鳥居に鳩を配す」、平成3年からは、「表の朱塗杯に青文字で描かれた紋章は、J、D、Mの3文字を組み合わせた江戸町の紋章「蛸のまくら」、裏面はオランダ東インド会社のV.O.Cマーク入り染付皿を猫足台に載せ下に洋酒器を配す。
<輪> 黒ビロードで和文字(諏訪神社名誉宮司上杉千郷)、洋文字(元オランダ王国大使 HCポスチュマス)で町名を金絲刺繍
<垂> 塩瀬羽二重に三社紋を金絲刺繍(令和元年新調 木村新造商店製作)
<奉納踊り>
 オランダ船(おらんだせん)
 大正の頃は「兵式教練」、昭和51年「オランダ万歳」であった
江戸町・オランダ船(おらんだせん)

籠 町(かごまち)

<町名の由来>
 竹篭を作る職人が多かった町。籠町と言えば長崎の人達は「ジャオドリ」と言う。本来は蛇踊(じゃおどり)の文字を書いていたが近年は龍踊の文字を書くようになっている。
 この町は唐人屋敷のすぐ隣町であり、江戸町と出島オランダ商館との関係のように唐人屋敷の人達は籠町の人達に対して、特別の親しみを持っていた。
 籠町の人達は寛政年間の奉納踊りに唐人屋敷の人達に習ってはじめて龍踊りをだしたという。このとき 唐人屋敷の中国の人達は本国より楽器や衣装の一切を取りよせて援助、龍囃子(ジャバヤシ)の指導も、自ら進んで引きうけたと伝えている。

籠 町・傘鉾
<傘鉾>
<飾・ダシ> 金色の龍声用の喇叭(長ラッパ)に紅白縮緬をくくり、長く垂らし銅鑼鞨鼓を取り合わせたる中国楽器。表に向けたる鞨鼓の裏に町名を記し、裏側に面した表皮の双龍を描き銅鑼の裏面に「本加護満知」と記す。
<輪> 白紋繻子 正面に宝珠 左右に金絲浮刺繍阿呼双龍
<垂> 白茶地に金絲刺繍龍紋織り出し
※籠町は傘鉾の意匠に因み唐楽拍子(龍踊独特の音楽)で傘鉾が舞うのでシャギリは付いていません。
<奉納踊り>
 龍 踊(じゃおどり)
 享保の頃より奉納、昭和32年に蛇を龍に変更
籠 町・龍 踊(じゃおどり)